読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

男らしさ・女らしさとは・・・・

先日「哲学カフェ」に参加してきました。

参加した結果井戸端会議の延長線って感じでしたが。

 

なのでこのブログに思ったことを書き出したいと思います。

 

f:id:ue47u9:20170226210911p:plain

  •  「男らしさ・女らしさ」の先

題名は「男らしさと女らしさ」でした。

そこに男らしさ・女らしさを事例として列挙していくわけです。

結論としてはジェンダー(文化的・社会的性差)はセックス(生理的性差)を無視して作られた性差であり社会構造が変化した今見直す必要性がある。ジェンダーフリー(性差開放・性差解消)に向かうべきだって流れです。

そんなのずっと言われていたことだし今更新鮮さがありません。

そもそも「らしさ」ってなんだろう。

「哲学」である以上はその先を考察していく必要性があると思いました。

 

  • 「らしさ」ってなんだろう

我々は「男らしさと女らしさ」に限らず「らしさ」に縛られてます。

毎年、成人式が非難の対象になりますが、それは成人とは・成人式とはと言う「らしさ」に合致しないからです。

成人式は、厳かに行われ新成人は親に感謝をし大人としての自覚を持つみたいな発言をする。を想定しています。そこに合致しないから非難をするのです。

 

 

親だから子供生むのでなく、子供を生むから親になるのだ。

 

言葉とは音声や文字によって人の感情・思想を伝える表現法。言語。

                      (ウィキベディア)

 

最初に現象があり、それを「言葉」が説明をしているのです。

子供が生まれたから親と呼ばれるただそれだけです。

「男らしさ・女らしさ」で当てはめてみると、

「女だから子供を生むのではなく子供を生むから女」って具合です。

「男だから家庭を守るのではなく家を守るから男」って具合です。

もう言葉遊びの域ですが、こんな感覚です。

 

言葉とは現象を説明するためのツールです

 

ただ現象を説明していたはずの「言葉」が一人歩きをして

言葉が現象を決定づけてしまっている。

 そこに現象とのギャップが生じ苦しんでいるのです。

 

ありとあらゆるものに「らしさ」を求めてしまう

男として・大人として・社会人としてなどずべてにおいてらしさを求められる。

言葉に我々は縛られているのです。

その言葉で制限されているさいたるが「男らしさ・女らしさ」

らしさを求めるのはその現象に対して考えるのを止めイメージで処理しようとしているってことじゃないのかな。

 

 

言葉や属性こそ、物事の本質に一致すべきであり、

逆に本質を言葉に従わせるべきではない。

というのは、最初に事物が存在し、言葉はその後に従うものだからである

ガリレオ・ガリレイ